海苔ささみピザパン

いろいろです Twitter@kame_kau

2017年9月19日の手記

  私は生粋の田舎者だ。四国の山奥から大阪に出てきてもう半年以上経つけれど、未だに人混みには慣れないしビル街を歩くときょろきょろしてしまうし電車の便利さには感動してしまう。今年の夏は京都の稲荷大社に遊びに行ったときを除くと一回も蚊に刺されなかった。大阪はやっぱり都会だな、と思う。田舎の嫌なところを今更並べ立てることは不毛だけれど、息苦しい山間から人知れず憧れていた都会が確かにここにはあった。

 

 大阪に来て残念に思った数少ないことの1つに星の少なさがある。地元にいた頃の星空は常に満天だったし、流星群が見られるという日には庭に寝転んで30分も粘れば必ず2〜3個の流れ星が見えたものだった。ここでは空を見上げてもはっきりと見えるのは月だけで、星々の光は小さくぼんやりとしている。大好きなピーターパンの本の中で瞬きを使ってお喋りをしたりピーターの気まぐれに加担したりしていた星たちは、大阪の空ではいつもうとうとしてやる気なさげに見える。まるで私のようだ、と言ってはさすがに星に失礼だろうが。

 

 大阪の街は常に工事をしているように思う。私は幼い頃から高校一年生まで毎年大阪を訪れていたが、夏になると必ず見上げる梅田のビル群にはいつもどこかにショベルカーがいた。大学生になり引っ越して来たときにも、同じような場所にあの背の高い緑色の車両があった。今もまだ梅田の陸橋を歩くときには片側にショベルカーと灰色の幕に覆われたビルらしきものが見える。そんなに建てるべき物があるはずがないから、きっと建築しているのではなく壊しているのだ。あんなにたくさんビルがあるのを気に食わない人たちがいて誰にも気がつかれないようにこっそり1年に1本ずつ目についた高い建物を壊しているのだろう。ビルも道路も壊れてしまえ、そのほうがあなたを見つけやすいなんて歌があるけれど、ビルのなくなった梅田で大量の人々が早足に歩き回っている様はとてもグロテスクではないか。都会で人々が互いに無関心でいられるのはビルがあるからだ。ビルは四角くて清潔な見た目でありながら都会の目隠しとしての役割を果たす。ビルの隙間に見える空は高く広い。私はあの解放された閉所とも言うべき大阪の人混みが好きだ。人々がそれぞれ建物の合間に自分の速度に合った流れを見つけ、それに沿ってせかせかと歩いている様はごつごつした岩の間を流れる川の源流のようだと思う。私は自然も好きだが、それと同時に冷たく無関心で単純な人工物も好きなのである。

7月7日

(前略)最も重要な、あるいは最も魅力的な願いとして明らかになったのは、人生を展望すること……であった。人生がそれ本来の厳しい浮き沈みを続け、同時に人生がそれと同じようにはっきり虚無として、夢として認識されるように展望したかったのである。

カフカ『〈彼〉一九二〇年の手記』より)

 

 

  深夜、寿命間近の蛍光灯はカチ、カチと音を立てて点滅している。私はいてもたってもいられなくなりコンビニにタバコを買いに出かけた。タバコを吸ったことはない。アパートのエントランスを出て、人気のない住宅街を大股に歩いた。夜の空気が心地よかった。意味もなく走り出したい衝動を体の奥深くに感じながら、私は星のない夜空を仰いだ。レジででたらめに番号を言うと、店員が白っぽい小さな箱を持ってきてくれた。ペイペイでおねがいしまーす。語尾の伸びた間抜けな声に自分が情けなくなる。帰りの道中でもう一度空を仰いでみたけれど、やっぱり星はひとつもなかった。部屋に帰って先ほど買ったものを見てみると、別売りの本体が必要だと書いてあった。なるほど、そういうタイプもあるのか。私はそれをゴミ箱に捨てた。

ぞんざいな生活

  お気に入りのステンレス製のコップに入れた麦茶を一口飲んだら、薬みたいな味がした。この麦茶変な味だな、と昨日から思っているけど、捨てたり作り直したりするのが面倒でそのまま飲み続けている……いや、面倒、という感覚にすら達していない。麦茶が変な味でも、どうでもいいのだ。お腹を壊してもせいぜい一時の腹痛だけで死ぬわけじゃないし。私はこういうところがだめなんだろうな〜と思いつつ薬味の麦茶を飲み干す。丁寧な生活、という言葉をインターネットでたまに目にするけれど、私には全く縁がないようだ。

帰宅

  道路には車のブレーキランプが赤く散っていた。私は横断歩道の白いペンキを踏みつけながら、ずり落ちてきたリュックサックの肩ひもを元の位置に戻す。伸ばしすぎた髪が首にまとわりついて少し不快だ。世の中はどうやら夜だった。ぶっ壊れたクーラーから出てくるみたいなぬるくて埃っぽい風が私を包んではほどけていった。横断歩道を渡り終わり、右へ曲がる。信号が切り替わり、再び動き出した車たちがスイスイと私を追い越していく。 

  友人と映画を観た帰りであった。路上では女性シンガーが何か歌っていた。前を通りかかるときにちらりと目をやると、彼女と目が合ったような気がした。どこもかしこも人だらけだった。隣を歩く男子学生の集団は終始楽しそうにはしゃいでおり、彼らのうちの1人は隣を歩く仲間の背中をほとんど奇声に近い笑い声をあげながらバシンと強く叩いていた。私はひとり自宅へと向かっていた。ペットボトルやダンボールや溜まった洗い物、その他ごちゃついた生活にまみれた自室である。街はさざめきに溢れていた。人々の笑い声や話し声が混ざり合ってうねりとなり、都会から個を失わせていた。その心地よい均質な流動体に身を任せ、私は人々とともに駅舎へとなだれ込んでいった。

  さっきの女性シンガーの顔はもう思い出せなかった。

帰省

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   高知県の空は広い。澄んだ空は真上に行くほどその青色を濃くしていく。その色のグラデーションが青い風船のようだと昔から常々思っていた。膨らませたゴム風船は膨らまし口に比べて頂上辺りの方が伸びきっておらず色が濃い。青く澄みすぎた空を見ていると、自分が巨大な風船の中にいるようで、いつその風船が破裂してもおかしくないような気がして恐ろしくなる。巨大な風船よりもっと巨大な何者かが巨大な針でプツ、と風船を刺して、一瞬のうちに空が、もしかすると世界全部が、縮れたゴムの切れ端になってしまうのだ。

 

  本当に世界が巨大な風船なら、世界の終わり方には2種類しかない。少しずつ空気が抜けてしぼんでゆくか、破裂である。子供の頃読んだドラえもんの教育漫画には、宇宙は徐々に膨張しておりいつか破裂するかもしれないと書いてあった。この世界は今、終わりに向けてしぼんでいるのだろうか、それとも膨らんでいるのだろうか。あるいは完全に静止していて、何者かのとどめの一刺しをじっと待っているのかもしれない。

 

 帰省を終えるために高速バスに乗る直前、もう一度空を見上げると、その色は青く濃く、雲は油絵の具を散らしたようにハッキリと青との境界を示していた。相変わらず人工物みたいに完璧な空だった。昔からあまり好きではない地元の空だけど、今は少し、名残惜しい気持ちがしないでもない、気がした。

 

   約5時間の旅の道中私はほとんど眠り続け、目を覚ました時には既にバスは大阪市内にいた。窮屈な座席から外を見るとビルの群れが立ち並び、その間を埋めるように塗られた空の色は灰色がかった白色だった。大阪は曇りか。頭の中でひとりごちる。

  明日からはまたひとりで都会を生きねばならないのだ。世界を内包する巨大な風船が破裂しようとしぼんでゆこうと私には何の関わりもないということを、大人になって知った。

かかとの高い靴

 去年の夏に買ったかかとの高い靴を履いてみた。買ってすぐの頃にはヒールに慣れなくて数十歩歩くたびにつんのめっていたのに、いつのまにか平気で歩けるようになっていた。アパートの階段を降りる。ヒールの音がカツカツと、少し大げさに感じるほど響いた。

 子供の頃に大阪を訪れたとき、梅田の地下を歩く女性たちの脚が皆とても長いのに驚いて、母親に「大阪の人はみんな脚が長いねえ」と言うと「何言ってるの、あれはハイヒールだよ」と呆れられたことを思い出す。あのとき私は初めてハイヒールを知ったのだ。異様に大きなヒールの音を地下道に響かせながら颯爽と歩く大人の女性たちを、少しだけ怖いと感じていたことをぼんやり覚えている。

 私は今大阪に住んでいて、ハイヒールを履いて歩いている。前を向くと、やはりいつもより視線が高いようで、視界が少し開けて見えた。どこが違っているのか明確には分からないけれど、この靴を履く前に見ていた景色とは明らかに何かが違う。私はもうすぐ21歳になるんだな、と、突然に思った。私が。私は。私、21歳に。

 化粧をするとき、鏡で自分の顔を凝視することに滑稽さを感じなくなったのはいつからだろう。19歳だった頃は、堪えきれず毎朝声を出して笑いながら顔に色を塗っていたはずなのに。ひとつまたひとつと化粧道具が増え、最初は5分もかからなかった化粧の時間も徐々に伸びた。

 私の表面が少しずつ、ふやかされて違う形に固められていくような感覚。今はもう、かかとの高い靴を履いて階段だって降りられるのだ。

 エントランスから外に出ると、少し雨が降っていた。傘を取りに戻ろうか悩んだけれど、面倒なのでそのまま行くことにした。コートが濡れても別にいいと思った。その程度の未完全さは、まだ私には許されているはずだったから。

パンジーの花とゴリラが似ている

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 パンジーの花ってゴリラに似てませんか?

 

 ということを私はここ何年も主張してきているわけなのですが、残念ながらあまり理解を得られずにいます。

 

 私はパンジーの花があまり好きではありません。理由は、前述の通りゴリラに似ているからです。ゴリラが嫌いというわけではないのですが、「ゴリラに似ている花」は好きではありません。

 

 街中の花壇にはやたらとパンジーが多いですよね。育てやすいのでしょうか。私が通っている大学の構内にある花壇にもパンジーがたくさん植えられています。

 

 これは完全に私の個人的な感想なのですが、パンジーばかり植えられている花壇は雑なものが多いです。「とりあえず空間埋めてみた」的な、と言うのでしょうか、バランスなどあまり考えずに同じような種類の花(パンジー)を並べている花壇が多いように感じます。

 そうしてそれらのパンジーは開花ピークを過ぎると当然枯れていきます。雑に植えられたパンジーは当然雑に枯れていきます。

 パンジーは枯れていくとき、花びらを落としません。花びらごとしなしなとしぼんでいきます。その光景はとても悲しいです。あんなに花びらをピンと伸ばしてあのゴリラのようなお馴染みの模様をこちらに堂々と見せつけてきていたパンジーが、徐々にしわしわになっていくのです。

 

 他の花が枯れていてもここまで哀れさを感じないのに、なぜパンジーにだけはこんなにも感情を揺さぶられるのでしょうか。それはやはり、パンジーがゴリラに似ているからだと思います。ゴリラは強いものです。ゴリラを模したパンジーが(模しているわけではないと思いますが…)あんな風にしなしなとうなだれていくのは見るに耐えません。

 

 このような事態を避けるためにも、各自治体又は学校法人は花壇へのむやみなパンジー投入は避けるべきだと言えるでしょう。