海苔ささみピザパン

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個人的な感覚

 人のことは知りたいけど自分のことは一切知られたくない、という感覚があります。

 

 最近は大江健三郎の小説をいくつか読みました。大江健三郎は、愛媛県の山間に生まれ、大学受験をきっかけに上京した経歴を持っています。また私も、高知県の山間に生まれ、大学進学をきっかけに大阪に転居して来ました。

 しばしば大江健三郎の作品の舞台となる“谷間の村”は、私の出身地にとてもよく似ています。しかし、ここではその類似についてではなく、大江の作品を読むにつれて言語化し得た、私自身の個人的な感覚について書くつもりです。

 したがって、この文章は日記やエッセイのようなものとして読んでいただければ嬉しいです。また、大江の作品を読む上での“四国の山間部出身者の精神性”の参考にしてくださる方がいたら、本当に本当に喜ばしく思います。

 

 私はとても“恥ずかしがり”です。自分や他人のエピソード(出来事)について話すのは得意ですが、自分の考え、特に真面目な考えを話すのは恥ずかしくてほとんどできません。自分が“恥ずかしい”と感じることを話すときは、発言の末尾を逆説の接続詞でもって濁すように終えてしまいます。例えば、大阪出身者が「○○やと思うねんな」と言うところを、四国の山間部出身者かつエセ関西弁話者である私は「○○やと思うねんけど」と言って終わらせてしまいます。これは大江の作品内で“谷間の村”の住民が「○○ですが!」と言うのと同じであり、高知県の方言では「○○ながやけど」と言います。

 一方で、私は他人の意思や言動にとても興味があります。この興味は、対象となる他人とその状況が私自身から遠ければ遠いほど強くなります。これは俗に言う“噂好き”という性質です。私はかつてこの性質を軽蔑しており、自分はそんな悪趣味な人間ではないと信じていましたが、今では自分自身にこの性質が多分に備わっていることを認めています(軽蔑すべき性質かどうか、という点については保留しています)。

 

 “恥ずかしがり”と“噂好き”という2つの性質によって私の対人態度の傾向は決定づけられている、と最近は考えています。

 自分の意見は表明せず(できず)、自身に関わりのない噂話の収集に執念を燃やす……と言っては悪いことばかりのようですが、上手くやれば“思慮深い”とか“物知り”という風に褒めてもらえることもあります(インターネットが普及した昨今、噂話に対する好奇心はゴシップだけでなく様々な分野の情報へと手軽に発散することも可能です)。

 そして、対人態度に関して私が抱えている困りごとのひとつに、集団の中で自分の考えを上手く表明できない、ということがあります。これを克服するために“恥ずかしがり”を乗り越えることが目下の課題です。