「生活の行為」の必要性
洗濯物を仕分けして洗うこと、布団を干すこと、カーテンを開けること、そういった細かな「生活の行為」の必要性が、最近やっと分かってきた。
私の空っぽな生活の器が徐々に満たされていくのは安心感がある。
私にとって生活が重要でないことは変わらないのだが、しかし生活は日々の多くを占めている。重要でないからこそ、それを「そこそこにやり過ごす」能力が身に付いたことは喜ばしい。
掃除機とか、やる意味分からなかったら絶対やらないです。やりたくないもん。掃除する「必要がある」ことが実感できたからこそ、やりたくないけど「そこそこ」やってます。やらなきゃダメだから。
やりたくなくても、ご飯食べないと動けないし、寝ないと眠いし、服着ないと寒いです。生活の中で、やりたくないけどやらないと困るしなあ、と感じる範囲がどんどん広がって、生活の空虚が「そこそこ」埋まればいいなあと思います。