歯ブラシの買い替え時期
昨日の夜、歯磨きをしているときにふと「この歯ブラシそろそろ買い替えなきゃな」と思った自分に愕然とした。歯ブラシの買い替え時期なんて、いつ誰に習った? 私はどうやら歯ブラシの買い替え時期を自然と察知できる側の人間になってしまっているらしい。“大人になるとはこういうことなのだろうか”、そんなこと実感したくなかった。
ぞんざいな生活2
時刻は早くも23時半、寝る前の薬を飲む時間である。私は散らかった部屋の諸々の中から慣れた手つきで目当ての薬を探し出すと、シートから錠剤を押し出して手のひらに乗せた。しかし、それを飲み下すための水がない。……いや、水がない、というのは不適切な表現である。なぜなら私は薬を水で飲むことに全く拘っておらず、お茶やジュース、酷いときにはコーヒーなどで飲むこともあるのだ。だから今のこの状態は、水がない、と言うよりは「液体がない」と表現するのが適切であろう。台所のシンクまで行って水道水を汲もうかとも思ったが、既に右手は錠剤が占領している。さて、どうしたものか。と辺りを見ると、机の上に数時間前に買ってきて食べたコンビニおでんの容器があった。中にはまだ汁が残っている。ちょうどいいものがここにあるではないか。私は迷うことなくおでんの汁で薬を飲み下した。汁を捨てる手間も省けて一石二鳥だと喜ばしくすら思う。
私の生活は万事に於いてこのような程度である。軽蔑されて然るべきかもしれない。生活というものに重んじるほどの価値を感じられない私は、何かが欠落しているのだろうか。
(小説)さよなら
ヤナギハさん(https://twitter.com/yanagihatei)との連歌で出来た一首の短歌に着想を得て書きました。このブログの公開を快諾してくださったヤナギハさん、ありがとうございます。
オブラートふやけていくよどうしよう さよならの刃(やいば)飲み込めぬまま
私たちは地元のショッピングモールのフードコートに向かい合って座っていた。場所を決めたのは私。これから起こることが何なのか、話があるって彼から連絡があったときにすぐ分かった。彼から連絡が来るのは本当に久しぶりだった。付き合い始めて1年くらい経ったころから全然連絡をくれなくなって、それでも初めのうちは私の方からこまめにおはようとかおやすみとか送ってたんだけど、彼からのあまりに素っ気ない返信にいちいち傷付くのに疲れてやめた。それで昨日、彼から話があるって連絡が来たとき、私は「ああ、別れ話だな」ってすぐ分かったから、このフードコートを指定した。ここはすごく賑やかで人もたくさん通るから、この場所でなら別れようって言われても泣かずにいられるかなって思った。
向かいに座っている彼はさっきから私と目を合わせようとせずに机の上のエッグチーズバーガーばかり見ている。あ、マック食べようよって提案したのも私。とにかく悲しい雰囲気になってほしくなかったから、別れ話になるべく相応しくない場所でなるべく相応しくないことをしながら彼の話を聞こうって思ったの。でも彼は全然話を切り出そうとしない。早く言ってくれないと、頑張って我慢してるのに、私悲しくなってくる。話って何?って言おうとしたけどダメ、ちょっとでも喋ると泣いちゃうかもしれない。私はポテトをふたつつまんで食べた。ポテトと一緒に悲しい気持ちも飲み込んじゃいたくて、あんまり噛んでないままのポテトを無理やり飲み込んだ。
私がストローでコーラを飲んでいると、彼が咳払いをして、ゆっくり口を開いた。
「あのー、あのさあ」
ハンバーガーを見つめてるままの彼が言った。
「別れてほしい」
その言葉を聞いた瞬間、私の心臓はビクンって跳ね上がって、頭の中は一瞬真っ白になった。でも、うん、知ってた。昨日からずっとこうなること分かってた。だから、受け入れられるように、悲しくならないようにっていっぱい考えて、昨日のうちにいっぱい泣いといたのに、なんで私こんなに悲しいんだろう、なんで私また泣いてるんだろう。全然受け入れられてないじゃん。
彼の短いさよならは包丁みたいに尖ってて、さっきのポテトみたいに簡単には飲み込めそうもない。きっと、彼は私のことを思って必要最小限の言葉で言ってくれたんだと思う。それなのに、さっきの言葉もまだ全然飲み込めてないのに、馬鹿な私は聞かなくてもいいことを聞いてしまう。
「何で?」
彼は、下を向いたまま、小さい声で、でもはっきり言った。
「好きじゃなくなったから」
私は震える声で「そっか」て言うだけで精一杯だった。私はボロボロ泣きながらポテトを無理やり喉に次々詰め込んでいった。彼の言葉はびっくりするくらい痛くて、もしかしたら一生飲み込めないんじゃないかって思うともっと悲しくなってきて、涙が意味分かんないくらい落ちてった。下を見たら、ハンバーガーについてた紙ナプキンが私の涙で濡れてふやけてた。こんなに泣いてるんだ、私。
彼は一回も私の方を見てくれなかった。
傲慢
片足の指のない鳩を見たことがある。
京都のとある街中を歩いていると、道路の真ん中をフラフラと歩く小ぶりの鳩を見かけた。近付いても全く逃げようとせず、初めのうちは何て能天気な鳩なんだろうと半ば呆れていたのだが、よく見るとその鳩の片足には指が無かった。日記によれば、2017年の9月23日の出来事である。以下にその日記の文章を抜粋して引用する。
左足の指の無い鳩を見た。事故でそうなったのか先天的なものなのかは分からないが、一般的な鳩よりも一回り小さかったので、充分に餌を食べられていないのだろうと思った。指がないとしっかりと踏ん張れないのだろうか、しばらく見ていたが車が来ても人が来ても飛び立つことはなくよろよろと歩き回るだけだった。
その様は私の脳裏に焼き付き、2年経った今になっても路上で鳩を見かける度にその鳩のことを思い出す。
そして時は流れて今年、2019年の7月中頃、その片足の指のない鳩を強く想起させる出来事があった。
季節は梅雨真っ只中で、その日もしとしとと雨が降っていた。傘を差し、大学の構内を昼食を調達すべく食堂へと向かっていた私は、足元に何か茶色っぽい物体が落ちていることに気付いた。立ち止まって見てみると、それは蝉の死骸であった。その濡れそぼった昆虫の死骸を眺めていると、私の頭にふとある考えが浮かんだ。この蝉は、太陽を知っていたのだろうか。ここ1ヶ月ほどは梅雨のためほぼ毎日天気が悪く、ここ1週間に至っては連日雨である。もしこの蝉がその生の中で陽光を知らなかったとしたら。そんなことを考えながら私はその場を離れて食堂の方面へと歩き出したのだが、仰向けになった小さな死骸のイメージは頭から離れず、また、2年前に見た指のない鳩のことを思い出さずにはいられなかった。
飛べない鳩と、太陽を知らなかったかもしれない蝉。彼らのことを私はずっと忘れられないかもしれない。この先も、鳩を見る度に、蝉の声を聞く度に、彼らのことを思い出してこんな感情に胸が支配されるのだろう。それが傲慢だと、理解しているのに。