海苔ささみピザパン

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東京游記

いろいろのたのしい島のなかでも、ネヴァーランドほど、こぢんまりと、何もかもそろっている国はありません。一つの冒険ともう一つの冒険のあいだが、たいくつに間延びしているような、大きい、ただっぴろい島ではなくて、気持ちよく、きっちり詰まっているのです。

(J・M・バリー『ピーターパンとウェンディ』より)

 

 

 東京は作為的な街であった。

 駅の周辺には背の高いビルが多く人もたくさんいるのだが、駅から離れていくにつれて建物の密度が下がり、人も車も当然徐々に少なくなっていく。その変化の仕方があまりにも綺麗で滑らかで、指数対数のグラフか何かを見せられているようだなあとか、全てを事細かに設計した人物がいてこの大量の人々は皆その人物の思惑通りに完璧に動いているのではないかとか、色々なことを考えた。

 人の流れ方が大阪とは全く異なっていることも面白かった。大阪の人混みはよく見ると大抵「速く歩きたい人」と「比較的ゆっくり歩きたい人」の2つの流れがあり、自分の望む速さの流れに上手く乗ることによってスムーズに通行することができる。しかし東京の人混みは全くもって流れがランダムで、「スクランブル」という表現がぴったりであった。その、何と表現したら良いのか、スクランブル具合といったようなものも東西南北それぞれの方向に向かう人がどこを切り取っても均一に配置されているような気がして、その様子がなんとなく恐ろしくもあり物珍しくもあり、ああここは私が全く体験したことのない規則で動いている場所なのだと思い知らされた。新幹線を降りた私が最初に東京の洗礼を受けた瞬間である。

 また、駅ごとにも確かな個性があり、そのカラフルさも見事にバランスが取れていた。街ひとつひとつが自らカテゴライズされにいっているような、そんな印象すら受けた。

 

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 東京を見て回っているうち、私は冒頭で引用した『ピーターパンとウェンディ』の文章を思い出した。歩いて行くとすごい早さでどんどん変わってゆく景色や雑然の手本のように雑然としている様子はとても物語じみて見えたし、“こぢんまりと、何もかもそろっている”という言葉がぴったりだった。加えて今回の旅行がほぼ初めての東京訪問であり、恥ずかしながら未だに“東京=テレビや漫画の中の世界”というイメージから脱することができていない私には特に、ネヴァーランド、つまり“どこにもない国”というイメージがしっくりきたのである。

 最初に私は「東京は作為的な街であった」と述べた。東京はきっと誰かがつくったネヴァーランドで、誰かのためのミニチュアの玩具なのだ。そう思われるほどにあの人混みや街並み、そしてそれらが集まって出来ている東京という都市は綺麗で、滑らかで、お手本で、ごちゃ混ぜで、バランスが取れていた。東京をつくった人物はきっとどこか高いところから、東京タワーの先端やあるいは新宿都庁の展望室から、あの都市を日々眺めては楽しんでいるのだと思う。