なんとなく憂鬱な気分になる思い出
小学一年生のとき、担任の先生が帰りの会で「心ってどこにあるか知っちゅう?」と言いました。先生は左胸に手を当てて、「みんなここにあると思っちゅうでね」と言い、それから頭を指差して「でも本当は、心はここにあるが」と言いました。
その先生は別の日の朝に、「今日一日の中で、びっくりした出来事を帰りの会で発表しましょう」と言いました。その日の帰りの会で、クラスのみんなは一人一人順番に立たされ、「○○ちゃんが後ろから脅かしてきてびっくりしました」「○○くんが大声を出してびっくりしました」というようなことを言っていました。先生は、不満そうな顔をしていました。
そして私の番になりました。私は先生が何を求めているかが分かっていたので、「校庭にイチョウの葉っぱがたくさん落ちていて、黄色いじゅうたんみたいで綺麗だったのでびっくりしました」と言いました。先生はそれを聞いて「先生が言ってほしかったのはこういうことなが!」と喜んでいました。みんなに拍手されました。
なんとなく、憂鬱な気分になる思い出です。
勝負を楽しいと思ったことがない
Twitterでも何度か言っていることですが、私は勝負の楽しさが理解できません。勝って嬉しい、負けて悔しい、そういった気持ちを感じたことがないのです。
みんなで集まっているとき、ゲーム(トランプ、人狼、マリオパーティ等)をやる流れになったら私は参加せずにただ眺めるだけにしています。参加して、ひとりだけつまらなさそうにしていたら申し訳ないからです。スポーツも、プレイしないのはもちろん観戦することも一切ありません。勝ち負けのあるもの全てがつまらなくて耐えられないのです。そのせいで世の中の娯楽の多くを楽しめずにいます。
友人に、勝つって何? と聞いてみると、「相手より先に勝利条件を満たすことだよ」と教えてくれました。正直、それって何が楽しいんだろう、と思います。目の前の人より上位に立ちたかったら銃でも何でも使って一撃必殺でやっちゃえばいいじゃないですか。私は誰かに勝りたいとは全く思わないのでそんなことはしませんが。
あまり上手くまとめられません……。ひとことで言うと、私が疑問に思うことは、上にも書きましたが「それって何が楽しいの?」ということです。誰か教えてほしいです。
プリクラの思い出
私の通っていた小学校では、小学校5年生か6年生になると、電車で数十分かけて小さなショッピングモールに行ってプリクラを撮るのがお姉さんになった証のようになっていた。私も例に漏れず、5年生になったある日、プリクラを撮りに町へ繰り出した。そうして撮ったプリクラは全て自室の勉強机の引き出しに適当に放り込んでいた記憶がある。特に楽しいとも思わなかったけど、友人に誘われるがままに、数か月で通算3〜4回は撮ったと思う。
ある日、どういった話の流れだったか、母にプリクラを見せると、「あんた全部後ろの方で小さくしか写ってないじゃない」と苦笑いで言われた。私はそれがすごく嫌だった。私は別にプリクラなんて撮りたくないし、断る理由もないから行っただけで、私にとってはプリクラもプリクラを撮る行為も全く価値がないのに、こうして他者から評価されるんだ、と、大変にショックを受けた。私は私の意図しないところで「何か」に組み込まれてその枠組みの中で勝手に解釈されることがあるんだ、という恐怖を初めて味わったと思う。
それ以来私はプリクラを撮ることをやめた。
昨日と今日
4月24日(金)
新しく買った歯ブラシで歯を磨いたら、昨日歯磨きしたときの数倍口内がすっきりした。古い歯ブラシを使うのはやっぱりよくないんだなあと思った。月一で交換するのがいいらしいけど、1か月後、つまり5月24日まで歯ブラシの買い替えのことを覚えていられるかと言われると、それは無理な話だ。じゃあキリ良く毎月1日にリセットすれば覚えやすいのではないかとも考えたが、4月24日に新しい物を買ったのに5月1日にまた買い替えるのはもったいない。5月いっぱいは今の歯ブラシを使って、6月1日にリセットすれば……いや、6月まで歯ブラシのことを覚えていられるわけがない。スマホのリマインダー機能を使えばいいのではと思い至ったが、それはなんだか嫌なのでやめた。まあ適宜買い替えということで……と、自分に向かって保守的(?)な結論を言い渡した。
4月25日(土)
お休みの日なので昼間から洗濯をした。灰色っぽい直方体が「洗濯が終わりましたよ」とピーピー言うので、私はすぐさま濡れた布どもを取り出して宙にぶら下げる作業にかかった。洗濯ネットの中で、靴下が裏返ったままになっていた。そのまま干すと履くときに時間を取られて面倒なので(私はいつも出かける準備がものすごくギリギリになってしまうので、着替えの際に靴下を表向きに返す作業すら命取りになる)、ひっくり返してから干すことにした。くるっと返した拍子に、ポロリと、3ミリほどの白い小さな物体が出てきた。お米であった。私は昨日以前のいつか、不注意から靴下にお米をくっつけて、そしてそれに気が付かないまま靴下を裏返しに脱ぎ、そのまま洗濯してしまったらしい。少し自分が可笑しかった。出てきたお米はゴミ箱に捨てた。
歯ブラシの買い替え時期
昨日の夜、歯磨きをしているときにふと「この歯ブラシそろそろ買い替えなきゃな」と思った自分に愕然とした。歯ブラシの買い替え時期なんて、いつ誰に習った? 私はどうやら歯ブラシの買い替え時期を自然と察知できる側の人間になってしまっているらしい。“大人になるとはこういうことなのだろうか”、そんなこと実感したくなかった。
ぞんざいな生活2
時刻は早くも23時半、寝る前の薬を飲む時間である。私は散らかった部屋の諸々の中から慣れた手つきで目当ての薬を探し出すと、シートから錠剤を押し出して手のひらに乗せた。しかし、それを飲み下すための水がない。……いや、水がない、というのは不適切な表現である。なぜなら私は薬を水で飲むことに全く拘っておらず、お茶やジュース、酷いときにはコーヒーなどで飲むこともあるのだ。だから今のこの状態は、水がない、と言うよりは「液体がない」と表現するのが適切であろう。台所のシンクまで行って水道水を汲もうかとも思ったが、既に右手は錠剤が占領している。さて、どうしたものか。と辺りを見ると、机の上に数時間前に買ってきて食べたコンビニおでんの容器があった。中にはまだ汁が残っている。ちょうどいいものがここにあるではないか。私は迷うことなくおでんの汁で薬を飲み下した。汁を捨てる手間も省けて一石二鳥だと喜ばしくすら思う。
私の生活は万事に於いてこのような程度である。軽蔑されて然るべきかもしれない。生活というものに重んじるほどの価値を感じられない私は、何かが欠落しているのだろうか。